悠の愛情論
爪を噛む理由としてよく言われるのが欲求不満です。
それはよく親の愛情不足とも言い換えられたりします。
どうもあまり根拠の無いことのようですが、当たらずとも遠からずという感じがします。
入力自体は十分な量でも、廃棄ロス部分が多いというのはあるかもしれない。
 
爪噛みを直す方法は無いかいな、とネットを彷徨っていると、お悩み相談のようなところがよく出てきます。
子供が爪を噛むという悩みと共に「私の愛情不足でしょうか」という言葉が書き込まれています。
「んなもん知るかいな。あんたがわからんのに」と方言でのツッコミも炸裂させたいところですが、
そんなことはネット上の常だと心を押さえようじゃないですか。
それにしても何か違和感があるんです。違和感というよりムカムカする。そう、ムカつくんです。
「見た目が汚い」とかいう記述には多少胸に刺さるものがありますが事実ですし、書き込む方々は本気で悩んでおられるのは確かでしょう。

ただ、私はそこにエゴみたいなものを感じてしまうんです。
ちょっと前まで子供だった者の立場としては。
吐き出す場所が他に無いのだろうけど、びっしり書き込んで(皆一様に改行しないのは何故だろう)質問の形をとりながら「そんなに心配してるお母さんなんだから、愛情不足なんかであるはずがありません」という言葉を期待している。
そして、愛情を与えようという意図をもった“愛情”のうさんくささ。
自分の行動が子供の行動を変えることが出来るという傲慢さ(まあまあ事実ではあるんですが)。
「何を今更」という思い。

客観的には愛情溢れる親でも、その子は特別愛情がたくさん必要な子で、まだまだ足りないのかもしれない。
親の愛情は足りていても、他の寂しいことを抱えているかも知れない。

そこで、「この子が爪を噛むの私の愛情が足りなかったからね」と自己完結して満足している方に残念なお知らせです。
第3者はあなたを責めてくれないかもしれませんよ。
第三者は愛情の有無は問題にしても、かみ合っているかどうかは重視しないようです。

小娘が何を言うかとお思いかもしれませんが、できればお付き合いください。
「愛情をたくさん与えた親」の子供が「愛情をたくさんもらった子供」とは限らないと思います。
(なぞなぞじゃないので「兄弟の一人が愛情を独り占めして、もう一人はもらえなかった」という意味ではないですよ)
感じ取れない方法で愛情をもらっても、何の意味も無いのではないかと思うんです。
子供それぞれの要求水準とそれぞれの変換式で、同じ物事の意味も変わってきたりしますから。
絶対量が重要ではないのです。ロスが多ければ無意味です。
適切な時期や適切な形をつかみ損ねると、どんなにたくさんあっても向こうまでたどり着けないのです。

食べ物に例えてみます。
 食べ物をたくさんもらっても、個体維持にはそれ以上の食料が必要だったとしたら。
 食べ物をたくさんもらっても、自分がどうしても食べられない種類のものだったとしたら。
 食べ物をたくさんもらっても、まったく調理されていなくて硬いままだったとしたら。
 食べ物をたくさんもらっても、それが食べ物だとわからなかったとしたら。
 食べ物をたくさんもらっても、時によって量の差が激しく、飢えた胃が食べ物を受け付けなくなった頃に大量に与えられたとしたら。
満足だと思うでしょうか?
純粋な量の問題は初めの一つだけで、あとは量よりももっと他に解決するべき問題がありますよね。

「食べ物」を「愛情」に置き換えることは可能だと思います。
ただ、基準がものすごく個人差に左右され、わかりにくくて不安定なものだと思いますが。
愛情というあいまいなものは、存在よりも、感じたか否かが大切なのではないかと思います。
必ずしも意識に上る必要は無いと思いますが、親が愛情だと思っているものが「全く通じない」可能性も頭に入れておいて欲しいなってことです。
「そんなはずは無い、その子に自覚は無くても愛さえあれば伝わるはずだ」とお思いの方もいらっしゃるでしょうか。
そういうことはもちろんあります。明確に意識できなくても伝わっているのであれば、とても意味のあることだと思います。
ここでは、「全く」伝わらない時の話です。

極端に言えば「愛しているから殺すんだ。伝わるはずだろう」という言葉はどんなに愛から出たものでも許されるものではありませんよね?伝わりませんよね?
極度のマゾには伝わるかも知れませんが、それを期待するのは現実的ではありません。
そういうことが、ものすごく薄められた形で日常でも起こっているのではないかと思うのです。

「あなたのためを思って」と頭ごなしに反対したり強制したりする親っています。
「もう少し大きくなればあいつもわかるはずだ」といって。
確かにそうかもしれない。
子供が成長して「あの時ああしてくれてよかった」と本当に思い、そしてそう言うかもしれない。
だけど「(子供にとって)理不尽な強制をされた」という傷は絶対に消えないと思うんです。
あとから親の行動の正しかったことを知って、「許す」ことは出来ても傷ついた事実は消えない。
子供自身では気づいてなくてもです。
「愛のムチ」は「強制による利益」と「強制による心の傷」を天秤にかけてからにして欲しいと思います。
まだ片足子供気分に片足を突っ込んでいる人間からのお願いです。
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